|
7時すぎ、起床。 8時すぎの電車で豪徳寺から代々木上原、乃木坂経由で、麻布区民センターに向かう。9時前に着いたら、みんなも来ている。杪谷氏も今日は遅刻なし。そのかわり、車で向かっているうららさんが数分遅れて来た。 さっそくみんなで手分けして会場のセッティング。今日は受付や客席係の助っ人も来てくれている。秋茜さんや津々美沙月さん、ミュージカル劇団ザヌーカの人も何人か。ありがたい。 榊原氏から、昨夜飲んでいて出たというエンディングについてのアイディアを聞かされる。なかなかおもしろいので採用したいのだが、キツネの面がどうしてももう一個必要になる。買いに行くには人手がないのだが、ちょうどこちらに向かっていた私のピアノの生徒のかわちゃんがいることを思い出した。かわちゃんの連絡を取って、新宿のハンズでキツネの面を買ってきてくれるように頼む。 結局、新宿にはなく、かわちゃんはわざわざ渋谷まで足をのばしてくれたらしいが、ここにもなし。榊原氏のアイディアは実現されず。もっとも、そのアイディアを核にした別のエンディング案が出て、急遽エンディングは変更となる。 11時から、昨日できなかったゲネプロをおこなう。出演者たちは実によく、ここまで作りあげてきてくれたものだと思う。いよいよ本番はおもしろくなりそうな予感がしつつ、終了した。 1時半、開場。お客さんが次々と来はじめた。席が徐々に埋まっていく。お祝いのお花もいくつか届いた。本当にありがたい。とくにことのは出版の野村さんからは「初コンサートおめでとうございます」というメッセージ付きのお花が届いて、うれしい。 かんがえてみれば、私はこれまで多くのライブやコンサートをおこなってきたけれど、これだけの出演者と関係者がかかわった公演を主宰するのはこれがほとんど初めてといっていい。多くの方々の協力をいただいて、ようやくここまでこぎつけることができた。私の力というより、みなさんの協力に感謝するしかない。 開演直前に舞台裏に行き、出番を待つ。最初に出るのは、音楽隊のうららさんと私のふたり。いったん出たら、あとは終演までずっと出ずっぱり。 客入れ用の音楽が流れている。5分前に影アナが流れる。これは森川凛さんに吹きこんでもらったやつだ。さすがにプロの美しいナレーションだ。そして5分後に音楽が止まって、暗転のなか、開演となるはず。なのだが、音楽が止まっても暗転がなかなかやってこない。 助手のケンくんに走ってもらって、暗転を催促。後で聞いた話では、どうやら、遅刻してきたお客さんが次々と会場入りしていて、暗転のタイミングを失していたようなのだ。 上演にあたってはできるだけの静寂がほしくて、音楽演奏のタイミング以外では客の出入りをさせないように指示を出していた。が、お客さんはそんなことはおかまいなしに入ってくる。静寂を保ちたいがゆえに場内のエアコンまで止めさせていたのに。 余談だが、朗読会に行くと場内でエアコンがガーガー音を立てているなかで上演していることがよくあるが、あの神経は私にはよく理解できない。 すぐにうららさんのシンセサイザー先行で音出し。会場はシーンと静まりかえっている。いまからなにが始まるんだろうという感じなのだろう。 しばらくうららさんのシンセ演奏を聴き、タイミングを見計らっておもむろにピアノではいった。関係者はわかっているが、お客さんにはよくわかっていないかもしれない。じつはこの公演の演奏は、ほとんどが即興演奏で構成されているのだ。決まっているのはキーとスケール。これはDドリアンスケール。 シンセストリングスによる重低音のあと、おもむろにピアノではいる。Dドリアンスケールを使ったやや和風なメロディで、低音から高温へとかけあがった。それを合図に、出演者が袖幕の裏からすり足で出てきた。緊張のおももちでゆっくりと出てくる。 全員が客席前に横一列にならび、そこへ客演の榊原忠美氏が車椅子に乗って登場する。なんと、車椅子は手こぎでなく、わざわざステップをあげて足でちょこちょことにじりながら出てきた。こういう茶目っ気がなんともいえない。目にはいったとたん、吹き出しそうになるのをこらえた。 「月日は百代の過客にして、行き交う年もまた旅人なり」 榊原氏の低い声が、低く会場にしみわたっていき、「おくのほそ道異聞」の本公演がスタートした。 上演時間は約1時間半。 ラストで、降ろしてあった可動式のステージがゆっくりと電動モーターでせりあがる。最後に榊原氏と岩崎さとこのセリフ。出演者全員がステージ上にならんで、お礼のおじぎ。 暗転のなか、ピアノの音だけが残り、全終了。 お客さんの反応はさまざまだ。「わからない」という人。「すごくおもしろかった」と絶賛してくれる人。なんとなく「賛否両論」という言葉が思い浮かぶ。 朗読公演ということで、ひょっとして普通の「朗読会」のようなものを想像して来た人も多いかもしれない。そういう人にとってはとまどいが大きかっただろう。朗読といえば、物語かなにかを、きれいな言葉・表現によって人に伝えるものという概念が普通だと思う。が、私はそれをまったく解体してみた。物語や言葉を伝えるだけなら、本を読んでもらえばいい。それを人が声にして、表現としてだれかに伝える意味はなんなのか。なぜ人は物語という素材を使って表現をおこなおうとするのか。その表現の方法にどんな可能性があるのか。 私がこの5年間、ずっと考えたり試みたりしていたことの大部分を、この1時間半のプログラムのなかに投入したつもりだ。まだまだ未整理の部分もあり、一般的な朗読愛好者にとってはとまどう部分も多々あったことと思う。が、荒削りではあるが、あたらしい表現へのチャレンジをおもしろがってくれた人もいたし、理屈抜きで感じとろうとしてくれた人もいくらかいた。 そんなことを、お客さんとの短いやりとりのなかで感じながら、すぐに夜の公演の準備に取りかかった。 |