それとは意識しないまま私と榊原忠美は25年来ともにタッグを組みさまざまな時間さまざまな空間において表現の発火点を作りつづけてきた。音、光、造形、即興性といった、およそ一般的な朗読の概念からかけはなれたアイディアを持ちこむことで、なんとか「枠」を取りはずしたい、もっと自由になりたい、とあがきつづけてきた四半世紀だったように思う。それはとりもなおさず「想像力」を拡張し人の肉体存在という制約を超えて共感しあうための場作りの試みだった。
今回、私がたどりついたのは「沈黙」という場である。
朗読は言葉をつむぐことから始まる。いや、始まると思っている。朗読するとき、人はいかに語るか、いかに言葉を発するかを考える。沈黙という時間と空間を自分の発する言葉で埋めることを考える。
そうなのだろうか。沈黙は言葉で埋めるべきものなのだろうか。沈黙が沈黙のままであるとき、そこにはなにが見えるのだろうか。あるいは、言葉を時間と空間から取りさっていったとき、出現する沈黙はただ空虚なものなのだろうか。
かつてジョン・ケージは「4分33秒」という、いわば「沈黙の曲」を作った。が、その4分33秒はけっして空虚ではなく、むしろ豊穣に満ちた音楽的時間であることを、もはや私たちは熟知している。それとおなじように、すでに人々が体内に持つ豊穣な沈黙を体験するための朗読があってもいいのではないか。
今回私は、沈黙を成立させるために朗読テキストを書いた。そしてそれは榊原忠美にゆだねられている。
朗読が沈黙に向かうとき、そこになにが生まれるか。なにが見え、なにが聴こえるのか。その結果は私も榊原も知るよしはない。
結果はあなたしか知らないだろう。
(水城雄 みずき・ゆう)